タンポポを載せ続けてしまう人の思考構造

──判断主体になれない人は「怠けている」のではない

刺身のツマに、タンポポの花を載せ続ける仕事があるとする。

誰かが「ここにタンポポを置け」と言い、

言われた通りに置き続ける。

それ自体は、何も悪くない。

問題は**「なぜ載せているのか」を考える必要がない構造**にある。

1. タンポポを載せ続ける人の思考構造

判断主体になれない人の多くは、能力が低いわけでも、怠惰なわけでもない。

特徴は、次の3点に集約される。

① 目的が与えられていない

「なぜこれをやるのか」が定義されていない 成果基準が存在しない 失敗の条件も成功の条件も不明

→ 判断の入口が存在しない

② 正解が外部にあると信じている

正解は「上」「先生」「会社」「AI」が持っている 自分はそれを当てにいく存在だと思っている 判断=責任だと刷り込まれている

→ 考えないことが安全になる

③ 判断しないことで生存してきた成功体験

指示待ちで怒られなかった 余計なことを言って損をした経験がある 判断しない方が人間関係が安定した

→ 判断回避が合理戦略になっている

2. なぜ判断主体にならなくても生きられるのか

重要なのは、

判断主体でなくても生きられる社会設計が実際に存在してきたという事実だ。

判断しなくても生きられる条件

役割が細分化されている 正解が事前に決められている 失敗しても個人責任にならない 上位がすべて判断する

この環境では、

タンポポを載せ続ける人は、極めて優秀な労働者

だった。

3. では、なぜ今それが崩れているのか

理由は単純だ。

判断が不要な領域を、AIが奪ったから

定型作業 正解が一つのタスク 判断が不要な業務

これらは人間よりAIの方が安い・速い・正確になった。

結果として残るのは、

正解がない 状況が変わる 複数の要素を同時に扱う

=判断が必要な領域

4. 判断主体になれない人は切り捨てられるのか?

ここで重要な分岐がある。

結論:切り捨てる必要はない

だが、設計が必要

判断主体にならなくても生きられる道は、今も存在する。

例:

判断を代行する仕組みの中に入る 判断範囲を極小化する 安定したルールの中で動く 判断者を信頼し、従う側に徹する

これは劣位ではない。

「戦略的に判断を持たない」という選択だ。

5. ただし、危険なのはこの勘違い

「正解を出さないといけない」

「判断しないと価値がない」

これは誤りだ。

必要なのは、

正解を出すことではない 全てを判断することでもない

判断が必要な場所を見分けること

6. タンポポを載せ続けてもいい人/いけない人

載せ続けていい人

上位に判断主体がいる 自分の役割が明確 判断を委ねる相手を理解している

危険な人

判断主体だと思い込んでいるが、実際は判断していない 正解を探し続けている 判断を放棄している自覚がない

7. 判断主体になるかどうかは「選択」だ

判断主体になることは、

責任を引き受けること 不確実性を扱うこと 間違える前提で動くこと

これを望まない人がいてもいい。

問題は、

判断主体にならないまま、判断主体の世界に放り出されること

まとめ

タンポポを載せ続ける人は「無能」ではない 判断主体にならないことは、かつて合理だった 今は判断の必要性が個人に降りてきている 判断主体にならない人には、別の設計が必要 判断主体になるかどうかは、能力ではなく選択

タイトルとURLをコピーしました